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サティヤの実践

2018.10.30

瞑想ヨーガの教典、「ヨーガ・スートラ」の中に、修練の8つの階梯というのがあります(八支則)。

 

 

そのうちのひとつ目、「ヤーマ」の中に「サティヤ」というのがあります。

 

 

これはつまりは、正直でいること。

 

 

そして、その意味のひとつは自分に対して正直でいるということです。

 

 

ボクはずっとそのサティヤが本当の意味でわかれば、本当に全てが解決するんじゃないかと強く思っています。

 

 

あなたが今そのようにあること。

 

 

調子良かろうが、悪かろうが、悲しかろうが、うれしかろうが。

 

 

最近の研究では、細菌叢が人間のあり方を操縦するかのように牛耳っているというようなものもあったり、1983年発表のベンジャミン・リベットの研究でも、すであなたが行うことは意志の力によって行なっているんではなくて、準備刺激が思い以前に走っていて、意識が後からそれを追認しているというようなこともわかっています。

 

 

そうして起きていることは、ある意味、ある程度、かなりコントロール外である可能性があるのです。

 

 

だとしたら、もうその状態をどれだけ愛せるか。どれだけ、「それ」と共に居られるか。
ここのレジリエンスが大切になってくる。

 

 

そして、ナシーム・タレブ言う所の「半脆弱」(Antifragile)、つまり、強いとは耐久性があるということではなく、ストレスやランダムネスを吸収して、成長してしまうことであると。

 

 

そんな、起きていることとただ共にいること、弱さもOKとしてしまえる強さが、めっちゃ美しくてかっこいいなと思うんですよね。

 

 

それが、判断しない、メタ認知的「気づき」の立場であり、意識であり、愛であると。 

 

 

今のその状態に自分が嘘をつかない。

 

 

調子が悪くても、「悪くないよ」とかいって、強がらない。

 

 

「ああ、調子が悪いんだな~」と正直になります。

 

 

それがヨーガを体験するにあたり、とっても大切な要素。

まさに「気づき」そのもの。

 

 

「サティヤ」で、「気づき」の立場に立つと、いろんなことがおきます。

 

 

例えば、マインドがあることないことを作って、自分を苦しめなくなる。

 

 

だいたい、マインドというのは自分を守りたいから、現実よりも悪いストーリーを作って、自分に見せてきます。

 

 

「あぶないから近づくな」とね。

 

 

事前にリスクを想定するから、それをヘッジして生きながらえることができるんですね。

 

 

結局自分を守ろうとしてくれているのだけど、性質がネガティブなもんだから、あることないこと出してくる。

 

 

人間って、未知なものって怖いじゃないですか。

 

 

だから観ないことは未知なものを残すことだから怖くて不安になる。

 

 

でも観ると、それがただ起きていることなのだから、「ああ、こんなものか」と、マインドが納得してストーリーを作るのをやめます。

 

 

なので、観ないより観た方がいい。

 

 

この辺りは、ヴィパッサナー瞑想のラベリングによる心の不必要な展開を止めるのと似てますね。

 

 

ふたつ目には、これは体験しないとわからないことですが、本当の自分に触れるということは、自分のいのちに触れるということですから、すっごい豊かです。

 

 

すっごいうれしいです。

これが自分なんだなあというやさしい、あったかい気持ちになります。 

 

 

言葉であえていうと、「ああ、そうなんだね。自分はこう感じているんだね。それでいいんだよ。」という感じ。

 

 

サティヤの実践。

 

 

自分に正直でいること。

 

 

自分をちゃんと観てあげる。

 

 

知ってあげる。

 

 

「そう感じているんだね。そう思っているんだね。そう考えているんだね」と。

 

 

自分に積極的に関わり合うかっこいい生き方だなあと思います。


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